2006年2月28日に既に、第28回地方制度調査会が「道州制のあり方に関する答申」に、「国と地方双方の政府の仕組みを再構築し、我が国の新しい政府像を確立する見地に立てば、道州制の導入が適当である」という見解を示していますが、国民の道州制への関心は高くはなく、国民的議論には未だにいたっておりません。
それは、道州制の議論が、どこの県を集めて州にするかなどの形の議論や、国と地方の権限の配分の議論に終始してしまっているからかもしれません。
なぜ今、道州制なのか?その辺をわかりやすく国民に示さなくては、国民的議論に至るには程遠いです。
欧米先進諸国に追いつくための経済成長と福祉国家の確立という国家的な大きな目標がある時には、国が財布を握り、地方が国の意向通りにお金を使う中央集権的な制度が有効でした。
しかし、先進国の仲間入りをして久しく、経済成長も鈍化し、格差社会の中では、従来の中央集権制度の延長線には日本の望ましい将来像は見いだせません。
この中央集権制度と深い関係にあるが官僚統制制度です。仮に道州制となった場合、国の仕事が概ね国防、外交、金融、通貨などに限られ、その他は国民に身近な道州が受け持つことになれば、官僚の仕事は半減どころではすみません。権限と税財源を握っているからこそ、独立行政法人や認可法人や特殊法人や政府系金融機関などへの天下り先も確保できているのですが、道州制になれば天下りは皆無になると思います。しかし、今多くの国民が、国会議員には国防、外交、安全保障に専念して欲しいと願っております。国会議員が地方の国道整備に力を注いでいては、日本の国益を損ないます。むしろ、国道の整備などは、知事や市長が国交省に陳情に出向かなくても、道州の権限と財源で整備できるようにすることこそが国民の利益です。
パターナリズムとは、
paternalism父親的温情主義、父権主義、父権的干渉主義。本人の意思に関わりなく、本人の利益のために、本人に代わって意思決定をすること。父と子の間のような保護・支配の関係。
です。
寒冷地の北海道と亜熱帯の沖縄の農業を農林水産省が一律に管理しているのはまさにこの感覚です。地方に農業政策を任せるよりは、優秀な我々が管理してあげたほうが良いという発想です。
この感覚と価値観を官僚から無くし、我々国民も、地方よりも国が偉いという明治時代から知らず知らずに刷り込まれてきたパラダイムの転換をしなくては、道州制の議論は高まりません。
150年前にできた中央集権・官僚統制の仕組みは、グローバル化し複雑化した現代社会では制度疲労をきたし、従来の制度の微修正では対応できず、国の形そのものを変えなくてはいけません。そのためには、今の制度に恩恵をあずかっている既得権者の抵抗に上回るだけのエネルギーが必要です。